請願第3号 新発田駅前公園を「大倉記念公園」に名称変更を求める請願書
受理日:平成26年8月26日
付託委員会:経済建設常任委員会
付託日:平成26年9月2日
審査日:平成26年9月19日
審査結果:採択(賛成多数)
議決日:平成26年9月26日
議決結果:採択(賛成多数)
採決状況:
賛成21、反対3
稲垣富士雄
川ア孝一
宮野昭平
石山洋子
請願趣旨
大倉喜八郎の業績を研究・顕彰するために設立しました「大倉喜八郎の会」は平成9年に設立以来毎年講演会、研修会、展示会をはじめ、さまざまな事業を実施し、新発田市民、関係各位から高い評価をいただいております。
大倉喜八郎は、今から177年前に新発田に生まれ、数え18歳のときに、郷里を後にして単身江戸に上京し、苦労して身を起こし、80歳頃には戦前の8大財閥の1つとされた大倉財閥を一代にして築きました。米寿の頃まで、事業の第一線で活動しているなかで、自身の企業だけでなく、盟友渋沢栄一などとともに財界の世話人として幅広く活躍しています。
また、医療・養護・慈善など多くの社会事業に携わり、教育では大倉商業学校だけでなく、さまざまな学校の創設・運営に関与しています。文化面での人となりは、一言でいえば洒脱で多趣味とされたように、興味ある活動を展開しており、特に日本で最初の私立美術館である大倉集古館を開設し、また、狂歌を学んで生涯詠み続けました。
日本近代の代表的な実業家であり日本資本主義経済の礎を築いた商人道精神を貫く経営哲学と高い倫理観を兼ね備えた偉大な人物のひとりとして、このように広範囲での事跡を残した大倉喜八郎の生誕地新発田市にいくつかの縁(ゆかり)の場所があります。
当会設立10周年においては東公園にありました大倉胸像が(かつて大倉製糸工場のあった敷地が新発田駅前公園となり)この敷地に移転の際は当会が記念石碑2基等を建立し翁の功績を刻して多くの市民に紹介し憩の公園として寄与しております。
その後、「大倉喜八郎が残した大きな足跡」、「大倉翁としばた」、「若き日の大倉」を発行し新発田市内小・中・高校、大学、市立図書館に寄贈すると共に多くの新発田市民に翁の業績を紹介してきました。
大倉喜八郎が我が国を代表する大実業家であり、我が国に偉大な貢献をしたこと、知識人、文化人としても魅力あるすぐれた人物であったこと、そして、翁の郷里新発田に対する愛着心は深く且つ濃く、有形無形の援助は常に町の繁栄を願ってのものであったことから、改めて郷土の誇りとすべきことなどを認識しています。
郷里新発田への援助
@ 明治11(1878)年、父母の23回忌に貧しい方たちのためと新発田町へ
1千円を贈っている。当時としては大変大きな金額で、随分騒がれたも
のだったという。翁41歳
A 明治40(1907)年、町財政の基金として5万円を寄附。これは水道敷設のためだったが、計画が中止になったので、このような名目で寄附したもの。翁70歳
B 大正5(1916)年、諏訪神社境内に続く土地3千坪を購入、公園を造成し新発田町に寄附。(土地買収費、維持費2万円)現在の東公園がその一部である。
諏訪神社へ石造大鳥居寄進。(現在、神社社殿向かって右側の道路に面して建つ)翁79歳
C 大正7(1918)年、新発田町に株式会社大倉製糸工場を設立する、最大660人の女工さんの地元就職口を確保した。翁81歳
D 大正14(1925)年、新発田町の水道敷設に5万円を寄附。翁88歳
以上、主なものを列記しましたが、他に有形無形の援助は数多くあります。
さて、@現在の新発田駅前公園には大倉胸像が移転されていること。A新発
田駅前公園は元々、大倉製糸工場があった敷地であること。B大倉翁が新発田に多大な援助を行ったにもかかわらず市内には大倉の名前の付いた公共施設等がないこと。C県立新発田病院には大倉翁の展示コーナーもあり県立新発田病院前の公園には大倉の冠を付けてもらいたいこと。
このようなことから、先日の大倉喜八郎の会の総会で公園名を「大倉記念公園」とし名称の変更を新発田市にお願いすることとして満場一致で決議されました。
ついては、公園の名称を「新発田駅前公園」から「大倉記念公園」に変更していただきたく請願します。
請願事項
新発田市において、公園の名称「新発田駅前」を「大倉記念」に変更していただきたい。
平成26年8月26日
新発田市議会議長 小川 徹 様